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2001年の活動記録85回生伏屋洋志 featuring Okuno
2001年度というと2005年現在、すでに4年の月日が経過していることになる。基本的に私は過去の出来事だとか、思い出だとかを記録し感慨にふけるような脳の回路にどうも何らかの問題があるようで、半年以内のことでさえかなり怪しいのだから、4年も前のことなどすでに10年以上前の記憶となんら変わりなく曖昧である。それでもどうにか記憶の糸を手繰り寄せ、2001年の記録などに目を通してみると当時のことがぼんやりと思い出されてくるような気がする。
2001年度は激動の年であった。というか色々と大変であった。まず人数が少なかった。私は当時予科2で、何の因果があったのか今もって不明であるが、バリバリの文系であった私がアメリカンフットボール部などという体育会系の極北のようなところに入部してしまい、若干困惑しつつも一年間曲がりなりにも耐え続け、2年目もどうにか耐えていこうと、耐え続ければ何かいいことがあるかと考えていた時期であった。ところがこの年にこそ、大小様々なイベントというか試練が数多く待ち受けていたとは思いもよらぬことであった。
最初の試練は勧誘であった。結果からいってしまえばこの年の新入部員獲得は0人である。この原因については語る立場にないので割愛するのだが、長期的に見るとここでの失敗がアメリカンフットボール部の予後にかかわってくる問題であったように思う。私個人にとっても自分より下がいないというのは大変つらいことであった。今でこそ予科1は蝶よ花よとかわいがられ大事に大事に育てられるのだが、当時はまだ予科1は単なる下っ端として厳しく扱われており、自分の下の学年ができることでそのような負担が多少なりとも減ることが期待されていた。さらに、自分の所属するラインユニットは当時、飯塚さん、根本さん、下沢さん、原田さん、加藤さん、斉藤さんといった大型の面子であり、その中で170cm弱の自分がやっていくことがどんなに大変であったか、せめて下ができたらその存在が一時の避難場所ともなりえたというのに、それもかなわなかったわけである。今にして、4年前の自分は本当によく頑張った、自分ならとても耐えられないと他人事のように思い出される。
2つ目の試練は伊藤文展君がアメフト部的におなくなりになったことである。伊藤君は同期のラインとして供に、かのラインユニットで耐え続けてきた大切な仲間というか、同じ境遇にあるという点で苦難を分かち合う(傷をなめあうともいう)同志であった。それが新年度早々に不幸な事故により、戦線を完全に離脱してしまうとはまったくの誤算であった。結構な重症であった伊藤君の身ももちろん案じられたが、これから一人であのラインの中でやっていけるのかと思うとなかなかに絶望的な気分になったことだろう。奥野はモヒカンになっていた。そんな状態で頑張り続けられたのは、先輩方の厳しい励ましがあったためであり、今シーズンは志半ばで無念に散った伊藤君のためにも頑張らなければならないという思いがあったからであると思う。不幸中の幸いであるが伊藤君はその後まったく後遺症も残らず今もどこかで元気に国試勉強に励んでいることだろう。
その後は新入部員0人にも伊藤君の離脱にもめげずに春のオープン戦、夏合宿と耐え続けていた。情けない話ではあるが、この時点ではまだチームの面子は足りており私はスタメンでなかったために、このままシーズンに突入すれば自分は交代要員としてスポット参戦するだけであると気楽に考えていた。しかし、ここで3つ目の試練が起きてしまう。チームの主将であった根本さんの骨折である。大会開始直前のオープン戦直前に大黒柱が負傷してしまうのはチームにとって大変大きな痛手であり、その後の試合ができるかどうかさえ危ぶまれるような状態となってしまった。私はまだ予科2であったためチームの運営や戦略などはすべて幹部学年に託すこととし、自分は自分のできることをやるしかないと思うことにした。根本さんが抜けた分の穴は自分が埋めなければならない。とても自分ひとりで埋められるような穴ではないが、ラインは個体ではなく群体として最大限の力を発揮するものであるから、左右にいる先輩方に助けていただければ、チームは勝つことができるはずだ。そう考えたかどうかは憶えてないが、とりあえずスタメンのガードとしてラインの一翼を担うこととなり、それまでの気楽な立場が一転して結構な重圧がある身となった。それでも秋合宿を乗り切り、シーズンに突入して、ガードとして対面とぶつかってみると1on1では勝ったり負けたりであったが、チームは3戦目まで快勝とはいかないまでも勝利を収め続けてきた。そのころになると私もラインの楽しさ、面白さがわかりだし、試合に出場できてよかったと思えるようになっていた。
そして、この年最後の試練が訪れることになる。シーズン最終対慈恵戦である。ここまで慶応、慈恵ともに3勝同士の対決であり、これの勝者が文句なしに優勝という大一番であった。根本さんも復帰を果たし、チームは万全の状態で試合に臨めることとなり、試合前の練習にもこれまでで最高の気合と盛り上がりを見せたのだが、実は私はこの試合にはキックカバー1本しか出場できなかった。試合は両ディフェンスが譲らず0−0の引き分けとなった。試合後、優勝決定戦に進むチームを決めるためコイントスが行われた。グランド中央でコイントスをする両チーム主将を、私たちはサイドラインで手をつなぎながら見つめていた。地面に落ちたコインを見て慈恵キャプテンが上げた雄叫びは慶応のこの年のシーズンの終わりを告げた。サイドラインに帰ってきた根本さんが言った「すまん」という一言は私が覚えている範囲で彼が謝った唯一の瞬間である。私は大一番で試合に出ることができなかった自分の力の無さを情けなく思い、この悔しさを忘れずに来年度からのシーズンを戦おうと心に誓ったものである。
2001年秋期医科歯科1部リーグ編成 | |
Aブロック | Bブロック |
日本大学松戸歯学部 | 東京慈恵会医科大学 |
東邦大学医学部 | 慶應義塾大学医学部 |
聖マリアンナ医科大学 | 東京医科大学 |
獨協医科大学 | 明海大学歯学部 |
東京大学医学部 | 鶴見大学歯学部 |
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11/18対慈恵医戦0-0優勝決定戦には抽選(コイントス)にて進出できず!!慈恵医戦の写真
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今年の大一番となった対慈恵医戦は、上記のごとく残念な結果になりました。十分なスカウティングに基づいた綿密なゲームプランはさすが慶應というところでしたが、いかんせんファンブル・インターセプト・エクスチェンジミス等にてターンオーバーを繰り返し残念ながら、得点には至りませんでした。
ディフェンスは、ほぼ互角のライン戦の中、度重なるターンオーバーによって常に自陣に押し込まれながらもフィールドゴールも許さず、ロングゲインを許すことはなく、本年最高の出来でした。また、復帰戦となった根本のロングスナップは1度もミスをせず、パントにて陣地をたびたび挽回することに成功し、慈恵医オフェンスを完封できた原動力となりました。
前半最後のロングドライブも久本の痛恨のエクスチェンジミスによって得点には至りませんでしたが、オフェンスはゲームを消化するにつけ完成度が上がっていき来年の飛躍を確信させました。慶應医の歴史の中でQB交代期に優勝した年はなく、少ない部員数と自前のグランドがない今年の環境を考えると上々の結果と考えるのが妥当といえます。
来年は部員数確保が大前提であり、更に困難な再建の年となるでしょうが、グランド問題も解決のめどが立ち、大きな躍進も期待できる年にしたいと思います。
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校内に戦車もある、三浦半島の最果て防衛大学校にて今シーズンの第3戦対鶴見戦が行われました。
先週の何とも気の抜けた東医戦に比べるとずいぶん気合いの入った攻防が当初より繰り広げられましたが、なかなか物事はうまくいかないものでロングゲインをすればしつこいくらいに反則で罰退を繰り返し、あまつさえファンブルは出るわ、相手にボールをもぎ取られるわでなかなかばたついたゲームが展開されました。
とはいえ、ライン力の優位を背景に終始ランは確実にゲインを重ね、常にグランドポジションは当方に有利のまま展開し、第2Qには伴のランで先制、更に第3Qにはだめ押しの久本のロールアウトからのキープで2TDをあげました。また、十分なスカウティングに基づいたディフェンスは、再三のブリッツが有効に決まり、相手オフェンスを圧倒していました。結果的にはパスインターフェアー2本でゴール前に押し込まれ、やらずもがなの1TDを許すも昨年に続き秋のシーズン3連勝となり、ついに11/18慈恵との全勝対決へと駒を進めました。
この試合一番の収穫は、主将根本の復帰であり、ラインはベストの状態になりました。怪我人もなく何となく順調にシーズンも大詰めとなりました。今年も昨年に引き続き自力優勝の目が残りじつに盛り上がってまいりました。よかった。よかった。
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開始2プレー目で相手QBのキープに独走より先制されたこのゲームは、その直後に伴の中央突破から独走タッチダウンにて逆転に成功しました。このプレーをきっかけに前戦に続き大量得点となるかと思われましたが、その後は一転膠着状態のまま前半が経過しました。
とはいっても内容は手に汗握るデフェンス戦と言うよりは何とも単調な攻撃を両チームが繰り返し初戦とはうってかわった凡戦となりました。
後半慶應が地力の差を発揮してTDを追加し突き放しましたが、このスコアが逆になってもおかしくない試合経過でした。まあ、良くも悪くも慶應医の試合運びといってしまえばそれまでですが本当に負けなくてよかった。
ともあれ、昨年に続き最初の2試合で勝利をおさめて優勝の可能性は膨らんできましたが、いよいよ鶴見・慈恵と続く残り2戦はこのゲーム以上に厳しい展開が予想されます。
10/14対明海歯戦32-0(前半20-0)にて昨年に続き快勝。2001年秋公式戦(明海)
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QBの交代、エースランニングバックの引退等々不安要素しかないと思われた初戦でしたが、蓋を開けてみれば上記のごとくの快勝でした。春からの目標であったライン力の強化が結実し、LOS上を慶應ラインメン(飯塚、下沢、原田、斉藤、加藤、伏屋)が終始支配し、鎌田、伴の両RBが縦横無尽に駆けめぐり、パスは児島、田中に面白いように決まり、ランパスのバランスのとれたオフェンスが試合終了のホイッスルまで繰り広げられました。
特筆すべきは1年目QB久本の成長であり、春の箸にも棒にもかからない姿は夏を過ぎ過去のものとなり、終始落ち着いたプレーコールでオフェンスをリードし、キープしてよし、パスを投げてもよしと鬼神の働きでした。
ディフェンスもライン力の優位を基盤にアグレッシブな姿勢が徹底されており、それが2本のインターセプトに結実し昨年に続き完封勝利というこれ以上のない好発進で2001年レギュラーシーズン開幕となりました。
top秋合宿(9月21日(金)〜24日(月)中村旅館練習は22日〜24日)
参加いただいたスタッフ・OBは小布施さん、荻野さん、山田深さん、畔柳さん
2001年秋合宿山田私記
夏合宿に続き、これまた例年の中村旅館での秋合宿。東関東自動車道をおりて鹿島へ向かったまでは良かったが、何を勘違いしたか去年の合宿所(たしか鈴木旅館だったでしょうか?)に辿り着いてしまい、本気で道に迷いました。おかげで午前中に到着予定が午後になってしまった。台風一過のたんぼ道を迷走したため新車も泥だらけ。こーゆー医者が患者をとり間違えてしまうんでしょうか。リハビリ科で良かった。どこかで聞いた気もする。というわけで、やっぱり合宿所は毎年同じに限る。
さて、余談でしたが午後は練習を見て参りました。そこそこ芝の生えたグランドはぬかるみもなくコンディション良好。ただ気候はホント寒かった。まだ9月なのに、寒風吹きすさび凍える凍える。あれだけ寒かったのはやっぱり歳のせいだろうか?現役どもはそんなものものともせず元気に広いグランドを駆けずりまわっていた。小田は半袖で笛を拭いていたが大丈夫なのか?
こんなに寒いと一緒にプレーするしかないのだが、余っている防具があるだろうと思ってヘルメットしか持っていかなかったのが誤算。なんと参加者に見学がなく、下半身パッド無しで、ハンドリングに入っていたセンターの対面に付いて上半身だけ当たってました。見学者がないのは何より。出遅れていた鎌田、伴、奥野も練習に入ってました。試合までにはなんとか仕上がりそうです。全体としてはチームの雰囲気はまずまずといった処ですが、これから3週間でいかに士気を高めて行くかでしょう。特に竜馬と久本に期待したい。おっと、忘れていたが言う間でもない根本もね。
OBの多数参加で盛り上がった夏合宿に比べるとちょっと寂しい感じもしましたが、この御時世に破壊願望論を見事に復活させた荻野さんも駆け付けていただけたようですし、畔も頑張ってくれているようだし、現地にいけなかったコーチ陣も常にチームの事を気にかけてくれていることがネットを通じて伝わってきます。入れ違いで小布施さんにお会いできなかったのが残念でしたが何故か片山監督には後日玉川高島屋でお会いできました。ゲッソリされていましたがお大事に。
夏合宿(8月15日(水)〜22日(水)慶應蓼科山荘) 練習は16日〜21日
合宿私記(大山編)
今年も夏合宿に行って来ました。昨年スタイリング引退を決意しましたが、結局8/18午前・午後8/19午前と現役部員の玩具になってしまいました。37歳、老兵はただ消え去るのみ。
年初に日程を決めたことと慶應に多数OBが帰ってきたことで、今年は多数のOBコーチが来てくれました。参加者は、順不同で小布施さん、米本さん、土橋、真純さん、須田君、河村、関、船曳、大塚、謙二、素行、片山、畔柳、山田深、吉武、橋詰、速水、秋田、小黒等々(忘れていたらごめんなさい。)部員数が少ない中、私をのぞくと皆さん現役時代を彷彿とさせる軽快な動きが随所に見られ、充実した練習につながりました。
現役部員も、少ないながらも相変わらず元気で今年の秋の躍進を確信させる順調な仕上がりを見せており、特にラインはメンツが充実し全体の底上げが出来て、期待大です。合宿賞関係は、きっと謙二か片山か山深が何か書いてくれるので、もう少しお待ちください。
片山監督の報告
本日午後8時前に主将の根本から電話があり、台風の中でしたが、全員無事に信濃町に到着したとのことです。
小布施さんや大山さんの予想通りで、年初から蓼科と決めて日程も決まっていれば必ずOBが集まるとの期待が大あたりした合宿でした。OB等22人、5家族が集結したと言うことになります。十分な練習を行うことができたようです。ありがとうございました。
秋合宿もありますので是非力を貸してください。
なお、MVPは、根本の悪態に耐え戦い精進したと前半の参加コーチより評価を受けた予科2line伏屋(賞品は、今年で4年目となり恒例となった西暦とUNICORNSのロゴの入った特製ジャージ)。次点として、秋田、小黒らの推薦にて、defense captain学2原田、RB,WR/CB学1児島(賞品は、船曳くん提供のTシャツ)、line学2下沢(賞品は、使用後の飯塚のショルダー)が、表彰されました。
ちなみに、月曜、火曜は、秋田、小黒、松村、飯塚の学4が取り仕切
ってくれたようです。取り急ぎ、ご報告とお礼まで。
76回の山田深です。ライン部屋の稽古をつけに参戦!(8月18、19日)
今年のラインはサイズにも恵まれ、何より個々のキャラクターが行けている。
・月が瀬ポリクリで写真入りの学生名簿が廻ってきたが、その風貌の変わり様。主将の根本は額と勉強以外は心配なし。
・体型が相変わらずとってもラブリーな下沢だが、それなりに引き締まって密度が増してきた。去年の秋にあたった時とくらべると課題だった下半身が安定してきた。
・ホームページ掲示板によると原田は傷心なのか?それにしてもラインOBは結婚が早いのはなぜだ?プレーサイドのギャップにつかれた時のブロックに進歩あり。
・怪我から復帰した加藤は今年は連マンで逆にOBを痛めつけていた。なんでお前はそんなにケロッとしてるんだ?セットした背中が篠田さんに似てきた。にやけ具合も。
・斉藤はラインバッカーの練習に加わっていた。片山監督とマンツーマンでのラインバッカー伝統のエグ練を垣間見ることができ、秋が楽しみ。
・伏屋はそんななかで黙々とやっているが着実に進歩していて、ヒット後のセカンドエフォートにも気迫を感じさせた。思わずブリ押しされてしまった。反省。
と、とりあえず持ち上げて見たが、まだまだのびる余地があるし精進精進。
番外
・畔ちゃんはすっかりスリムになっていた。昔の運動制御系が未発達の状態に少しもどってしまっていたが非常に熱心(ある意味ちょっと、、、)に指導していた。今年のOBライン一押し。
・橋詰さんもスタイリングした様だが入れ違いでプレーが見れず残念。往年のスピード系ラインは健在だったようだ。
・泰生さんは偉大です。
やはりラインはガシガシ当たることでと心が通じ合えるものだなと改めて感じた蓼科の夏でした。
春のオープン戦
6/20対日本大学医学部戦12-3初勝利!!
懐かしの大井第二球技場で行われた今年の初戦、対日大医戦は一部校の貫禄を見せて12-3にて勝利しました。QB初陣となる久本は立ち上がりこそかたさがみられましたが、初TDを自身のランにて奪ったのちは有効にランプレーでゲインを重ね、デフェンスもfield goalで先制されるも終わってみればTDを許すこともなく堅実に勝利を収めた初戦となりました。とはいえ部員不足は今年も解消されす、QBも1年目で経験の浅さは否めず気の抜けないシーズンの始まりです。
6/4 対慈恵医大スクリメージ4本(?)-1本
QB久本から田中へのロングパスが前半おもしろいようにとおり、あっという間に3本先行し、結果的には慈恵のオフェンスをTD1本に押さえ上記の様な結果となりました。しかしながら、昨年ブロック優勝した慈恵医大は主力の引退で再建色が強く、この結果が秋につながるとはいえず、主戦QBが投入された後半は、終始慈恵優位でした。当日は気温も上がり、部員不足の慶應のスタミナ不足が露呈した一戦でした。
2001年の連絡事項
- OB会費の値下げが承認されました。自動引き落としへの移行を今後進めることをご報告いたしました。
2001年監督談話片山正輝
本年も、精神的、経済的、肉体的なご支援ありがとうございました。
本ホームページにて、現役選手の活躍は、ご存じかと思います。
少人数にも関わらず、よくやったと褒めてやってください。
それを支えたマネージャーの活躍もすばらしかった。冬新年を迎え、20周年記念partyが執り行われた。 CD版スクリメージが、大山さんの尽力で発行された。 本年は四谷体育会の副委員長として、学3鎌田、学2田中竜馬が名を連ねた。 助監督山田素行が委員長をつとめて以来であろう。春予科1入部1名。新歓後に練習にこなくなる。 4月、予科2の1名が、急性硬膜下血腫にて入院。 幸い点滴のみで改善し、1週間で退院できた。 創部以来初の出来事であった。 脳震盪を繰り返す、学4の名選手にfootball自粛を申し渡す。 つらい決断だった。 看護短大の看護学部への移行に伴い、1,2年生のキャンパスが 藤沢に移行し、青山短大からもマネージャー募集を行った。夏蓼科での合宿。 総勢20人を越すOBの参加を得て、充実した合宿であった。秋主将の骨折で、チームに危機が訪れた。 不本意ながら、棄権という選択肢が頭をよぎった。 それでも、選手、スタッフ力を合わせて戦いに望んだ。 経験不足の選手たちが、次第に成功体験を重ね、頼もしくなっていった。 1年間通して、敗戦はゼロ。 しかし、決勝進出成らず。 トリカゴは失われたまま、三田綱町のグランドへ選手は通った。 休日は、多摩川の土手でグランドを取り合って練習した。 卒業、DE,OG飯塚、QB,TE,LB松村 最低登録人数は16人。現時点で、予科1から学3まで総勢13名。選手諸君。 苦しく厳しい現実の中、Footballを楽しめましたか? いろんなことがありましたが、 Football、やっててよかったと今年も思いました。 さあ、来年はどんなFootballが待っているか、楽しみだな。